子ども達に質問をなげかけることは意外と簡単にできる。
でも、有効なことばがけをして、行動を変えるのはとても難しい。
どんな言葉が、その子に響くのか。
きょうは、数少ない有効な言葉がけが出来た日。
そして、準備せずにいったことは、今思い出せない。
ただ、こどもたちが私のことばを繰り返し、行動を変えたのだけは
わかった。
きょうは、Xがリーダーだよ。時間通りに進んでないね。
Xがいきなり「はやく はやく!」
人の動きを見てない。人の気持ちをくんでない。目先の楽しい感情に動かされてる。
それが私の観察。
その一方、自分がその場その場で楽しむことより全体をじっと観察してる子(C)もいる。
全員が見えるところで、いつも、いま何がおきようとしているのか、何を私が起こそうとしているのか
感じ取ろうとしている。
質問 「いつも大人で、全体を考えて行動してる子がいるけど、誰だと思う?」
数名がCを指さす。
これからここでやろうとしている大切なことはね、他の人がどう感じているか、人の話をしっかり聞いてわかって、動くってことだよ。
そういう時に、ここ二人だけで楽しんでるとか、全然、人がどう考えてるか聞こうともしないとかって、こども(おこちゃま)だよね。
みんなで協力するときに必要な態度ってどんなこと?それができなくていつまでも子どもだったら、社会の一員として働くことだってできないんだよ。大切なことができてないよね。
自分の持ってるいいところ、たとえば、お話を聞いて人よりよくその役の感情や動きがつかめるとか、そういう長所をいかすには、思ってることを人に伝えることだよ。
そんなことをいったあと、子どもたちの行動ががらっとかわった。
このお話を、自分のイメージを出し合いながら、形にしようという集中力ができた。
自分の感じたことを、ことばに出せる子の場合は、どんどん「今、その意見をみんなの前でいったことは本当にタイミングがよかった。ありがとう」ということでほめる。
「いま、○○が、そっちはそんなに静かではないんじゃないって、自分の感じたこといってくれたよね。それってすごくいいことだよ。」
自分の感じたことを、聞き入れてもらえる。それはたぶん子供にとって本質的なところで心地よいんだと思う。
小学生でもテーマ活動に夢中になるのは、それが大きな理由の一つのはず。
日々丁寧に大学生まで含めた子どもたち、そして保護者の方たちと向き合う中で、そのお子さん、そのご家族にとって英語が今と未来をより楽しくする手段となることを、ライフワークにしています。
こんなメンバーで学んでいます
2014年3月26日水曜日
「愛された記憶」
日経の「それでも親子」というコラムに歌手クミコさんのインタビューがのっていました。「愛された記憶」が財産というタイトルで。
私もここのところ、親には照れくさくて言えないけれど自分の中ではっきりわかってきたのが親に、愛された記憶、感覚がいかに自分にとって大切な感情かということです。
体験したことのない感情を理解するのは、難しい。寒い国にいったことがない人に、寒いという感情がないように。
何の根拠もないし、現時点で誰から言われるわけでもないのですが、自分の中にある「愛されている」という感覚は、実は幼いころに親から与えられたものだと感じるのです。
私の両親は幸いなことに健在ですが、もしいなくなってしまっても、私がもらった自分が愛されうる存在だという大事な感覚は、一生消えることがないだろうというのも感じます。いなくなってしまったら寂しいでしょうが、一度自分の中に入っている感覚は消えない。
かわった人と思われるかもしれませんが、青空に向かって「愛してくれてありがとう。」と言えてしまうような感覚。
以前は、自分が神様から愛されている存在であるということを、まずは親が愛してくれることで体感させてくれる、教えてくれるんだと、逆に考えていました。(神様といっても、特別な信仰心はないのです)
でも、親が、何のとりえもない、ウィンウィンどころか、世話をしなければならない対象である私という子供、存在を大切にしてくれたこと、そのことが私に、もっと大きな自然、宇宙から愛されていると感じさせてくれる偉大な行為だったのだなあと感じます。
愛された記憶が財産とは、私についていえばそういうことだなあと。
クミコさんは「相手が話したいことを聞いてあげることが最高の親孝行」だと思うそうです。
えらい!いつも忙しがってる私にはできてないこと。一日5分でも親孝行しなければね。
私もここのところ、親には照れくさくて言えないけれど自分の中ではっきりわかってきたのが親に、愛された記憶、感覚がいかに自分にとって大切な感情かということです。
体験したことのない感情を理解するのは、難しい。寒い国にいったことがない人に、寒いという感情がないように。
何の根拠もないし、現時点で誰から言われるわけでもないのですが、自分の中にある「愛されている」という感覚は、実は幼いころに親から与えられたものだと感じるのです。
私の両親は幸いなことに健在ですが、もしいなくなってしまっても、私がもらった自分が愛されうる存在だという大事な感覚は、一生消えることがないだろうというのも感じます。いなくなってしまったら寂しいでしょうが、一度自分の中に入っている感覚は消えない。
かわった人と思われるかもしれませんが、青空に向かって「愛してくれてありがとう。」と言えてしまうような感覚。
以前は、自分が神様から愛されている存在であるということを、まずは親が愛してくれることで体感させてくれる、教えてくれるんだと、逆に考えていました。(神様といっても、特別な信仰心はないのです)
でも、親が、何のとりえもない、ウィンウィンどころか、世話をしなければならない対象である私という子供、存在を大切にしてくれたこと、そのことが私に、もっと大きな自然、宇宙から愛されていると感じさせてくれる偉大な行為だったのだなあと感じます。
愛された記憶が財産とは、私についていえばそういうことだなあと。
クミコさんは「相手が話したいことを聞いてあげることが最高の親孝行」だと思うそうです。
えらい!いつも忙しがってる私にはできてないこと。一日5分でも親孝行しなければね。
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